太秦と秦氏


京都の西に太秦(うずまさ)という所がある。
国宝で知られる弥勒菩薩半跏思惟像というとても
綺麗な仏像がある広隆寺の前の交差点の名前だ。

その太秦には伊佐良井(イサライ)という地名がある。
「扶桑京華志」(寛文5年 松生元敬著)に

「伊佐良井 太秦村ニ在リ。深ノ事ハ知レザル和歌有リ」と

書いてある。

太秦の地名の由来は、古代ユダヤ古代ヘブライ語の「ウズ」(光)、
「マサ」(賜物)が語源であるなど諸説あるが、太秦=聖徳太子+秦氏と
なっているのにも大きな意味がありそうだ。

太秦にある広隆寺は、秦氏と聖徳太子を結びつける重要な寺だ。
ちなみに僕は数年前に広隆寺に呼ばれ、1日中仏像の前で
瞑想したことがある。

秦氏と広隆寺のつながりは以下の通りである。

1.広隆寺
太秦にある広隆寺は、渡来人系の豪族秦氏の氏寺であり、
太秦寺という別名がある。建立したのは秦河勝

2.弥勒菩薩
広隆寺の弥勒菩薩(国宝 宝冠弥勒)は新羅から渡来したものと
言われている。秦氏は渡来人である。

3.十戒
古代ユダヤのモーセの十戒・・・ユダヤ期限の秦氏とのつながりがある。

聖徳太子と広隆寺のつながり

1.広隆寺
広隆寺の本堂 上宮王院太子殿の本尊は聖徳太子像である。

2.弥勒菩薩
広隆寺の弥勒菩薩(泣き弥勒)。
「宝冠弥勒」と同様のポーズをとるが、やや小さい。
日本製と言われている。・・・聖徳太子を模したと言われている。

3.十善戒
広隆寺の十善戒・・・聖徳太子

ここで、十戒と十善戒を比較してみる。

広隆寺の十善戒とモーセの十戒

広隆寺の十善戒 モーセの十戒
不殺生 (殺さない) 殺人をしてはいけない
不偸盗 (盗まない) 盗んではいけない
不邪淫 (邪淫しない) 姦淫をしてはいけない
不妄語 (嘘をつかない) 偽証してはいけない
不慳貪 (欲張らない) 隣人の家をむさぼってはいけない
不両舌 (二枚舌を使わない) ヤハウェが唯一の神である
不綺語 (お世辞を言わない) 神の名を徒らに取り上げてはならない
不瞋恚 (怒らない) 安息日を守る
不悪口 (悪口を言わない ) 父母を敬う
不邪見
(不正な考えをしない)
偶像を作ってはならない
(偶像崇拝の禁止)
十善戒は聖徳太子に縁のある広隆寺の境内に書いてある。 秦氏は、ユダヤ教、原始キリスト教、景教に関係があると言われている。

十善戒は聖徳太子が作ったものではなく、
古くからある仏教の教えである。

聖徳太子の十七条の憲法は肯定文で何かをするように
指示されているのに対し、十善戒は「何々するな」と
否定語で書かれている。

十七条の憲法が聖徳太子の作だとすれば、十善戒の文面は
聖徳太子に似合わない。
その十善戒が広隆寺の境内に書かれているのは、
聖徳太子以外の何者かの考えがあった事を推察させる。

いずれ明らかになることと思うが、太秦という地名に加えて
広隆寺周辺にはこうした不思議な話がたくさんある。
またいずれ訪問することになると思うが、半跏思惟像は
すばらしい作品なので、一度ご覧になっていただきたい。

<今日の記録>
RUN:5kmJOG+5kmWalk(今月:15k 今年1335k)
体重:83.8kg 体脂肪率:20.3
カロリー:+2400-2500=▲100(今月+1450)

<今日の食事>
朝:いなりずし+バナナ
昼:モスバーガー+大学いも
夜:焼肉+ソフトクリーム


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この記事を書いた人

静岡県出身。東北大学工学部応用物理学科卒。
1993年アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)入社。大手会計システムの設計・開発・データ移行に携わる。同社戦略グループへ配属後、医療法人システム導入PJT、大手石油会社業務改革に従事。同社を退社後、個人で複数の中小企業を相手に経営診断、営業支援を実施した後、1998年(株)ベルハート入社。発信型テレマーケティングメソッドの開発・導入指導をしつつ、1999年Bell Heart Inex Le Corp.代表として台湾へ赴任。同事業黒字化の後、代表退任し帰国。

2000年(株)ラストリゾート入社。国内拠点、海外拠点の拡大に従事。同年、同社取締役。2002年、同社取締役事業本部長就任。2006年代表取締役に就任。2009年同社代表退任後、数々の新規事業、新会社設立に参画。コンサルティングや経営参画しつつ、多くのプロジェクトに足を突っ込む根っからのお節介。
生涯調達資金額が70億円を超える資金調達のスペシャリスト。

コメント

コメント一覧 (5件)

  • 初めまして、服部様。私は秦一族の末裔、秦 嘉伸(はたよしのぶ)と言います。どうぞ宜しくお願い致します。<秦氏の集い>と言うサイトを開設しており、秦一族の歴史における話しを掲載しております。秦一族の歴史は京都や奈良よりも古く、日本が倭の国と呼ばれた弥生時代から始まっております。天皇制度がまだ無い時代ですので、当然、大和政権もありません。秦氏の歴史は九州の香春町(かわらちょう)にあります香春岳から出発しております。そして英彦山(ひこさん)や、宇佐などに広がって行くのです。秦一族は初代の天皇である神武天皇と共に近畿にやって来ました。以降天皇家に遣える一族として平安京までの歴史があります。服部という名は初代の太秦である秦酒公(はたのさけのきみ)の流れであり、京都の太秦にあります蚕の社での宮司もやっておりました。三本柱の鳥居で有名な木嶋神社の事です。‘はっとり’の語源は‘はたおり’です。また、元伊勢の神社にも服部は関係しております。その場所は吉備です。此処は服部の拠点で服部の郷です。

  • 「十善戒」については「十戒」とは関係ありません。この話しはガセですので。これは真言宗が仏教の中に説かれている<十大悪>を戒めるものとして説かれたもので、正しく言えば、
    「十善業道菩提心戒」(じゅうぜんごうどうぼだいしんかい)というものです。悪い事をしない事が良い事であるという真言宗の信条です。広隆寺は、色んな宗旨に改宗しながら来ている歴史があり、十善戒は真言宗の時もあった名残りです。
    太秦(ウズマサ)というのは秦一族の首長に対する敬称です。但し、天皇家からこの名を頂いたという話しは間違いです。ウズマサの名の流れは、辛国宇豆高嶋という秦一族が居た拠点にすでに見られます。また韓国宇豆峯神社というのもあります。この「宇豆」が始まりなのです。場所は九州にあります。「宇豆」の正しい意味は‘高きもの’とか‘崇高なるもの’であり、ヘブル語や、ユダヤとは関係ありません。

  • 秦氏と景教は、関係ありません。秦氏は景教徒ではありません。この話しは流行している様ですが、‘ダタラメ’ですので、騙されない様に注意して下さい。
    ネストリウス派のキリスト教が中国に辿り着いた時には、秦一族はとっくに日本に渡っておりまして、秦の一族は既に形成されております。また景教は、中国でそのまま滅んでおり、日本にまで来ておりません。中国で終わっております。秦氏が景気教徒であるとすれば、初めから景教徒として中国に来てなければならない話しなのです。しかし、そんな事実はありません。これはウソなのです。

  • ウズマサにはジュー(=ユダヤ人)・メシア(=救世主)が音韻変化したという説もあります。

    私はこれが一番正しいと考えています。

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